Blogで俺がやりたいこと

え〜と最近のBlogや新聞を読んで思ったことを。

SNSだろうがBlogだろうが実社会の報道だろうが少なくとも現状において本音を吐くのは折れは匿名・HN(ハンドルネーム)を基本としたいと思う。先日のウスイスウプさんとKanoseさんとのやりとりを拝見してウスイさんにはコメントも差し上げて丁寧に日を改めてお返事をいただいたりもしたのだが日本が閉鎖的なムラ社会SNSがネット上のムラであるならば私にはやはり受け入れられない世界だし、今俺がBlogに傾倒するのはやはりただでさえ影の薄くて話下手の折れの思ったことを少しでも表現し、それに対する反応を得たいがためであり、実名を使うことで実社会の生活まで危険が及ぶ可能性があるなら避けるため・あとは憧れもあるのでHNを使いたい。さらに、SNSの代表格であるmixiが実名推奨であるにもかかわらずアニメのキャラの名前で登録し、さらにコミュニティをつくりあたかもそのアニメの世界をMixiのコミュニティで再現しようとする人(それはそれで並々ならぬこだわりを感じて潔くて良いと思う)がいる以上そのような半閉鎖空間で実名や住所などの個人情報を晒すのはあまりに危険すぎると思う。
やりたいこと・言いたい事は色々あるが今の社会の中で個人が少しでも多くの人に届く表現をする(やる人のことではなく表現の結果を重視)のであれば、これまでのジャーナリズムやマスコミというものははっきりいって敵の場合が多く(あまり断定したくもないがいくつかの人の証言でその傾向は伺えるのも事実と思う)個人対マスコミ・数知れないジャーナリストも相手にするのであればやはり、実名は避けるべきだと思う。、彼らが(読売新聞の5月26日朝刊で福知山線事故の死者の名前公開拒否をネタに必死に実名報道の必要性を主張していたが)どんなに自分たちを社会の公器・正義であるといっても実際は数の論理で金になる記事書いてナンボであることは最近のことで言えばフジVSライブドアの一連のやり取りで改めて明白になっておりマスコミ・ジャーナリズムがことあるごとに唱える真実の追究というのも詭弁であろう。彼らはあくまで事実だけではなくある事実に基づいて自分の主張や営利を追求したいのであり、福知山線事故で一部の遺族が取材・実名公開拒否に踏み切ったのはそれに対する抵抗・(そっとしておいてほしい)(マスコミにプライバシーを晒されたくない)という主張の表れであり、認められるべき権利ではないか?報道機関の多くが現在、純粋に記者の情熱で紙面が構成されているというより、数の論理・いや数の暴力でやりたい放題しているように見える以上こちらも個人情報を自分で守らないといけない。匿名や・HNはプロクシやファイアウォールみたいな感じかな?

俺の書いたことで今のところ不快な思いをさせたり、傷つけたりしている部分はあると思う。そうであればどういう部分が不快なのか?自分の思うところを教えてほしい。そうして、折れはBlogを通して色々な人やその考えを知って行きたい。そしてもっといいコメント書けるように努力したい(頼むから俺の見えないSNS内とかは勘弁して)少なくとも折れはネット上ではHNに誇りを持って使っているつもりで、それ(HNの由来となった小説の登場人物の名誉)を汚すようなことはしないように心がけますのでよろしくお願いします。